「散るぞ悲しき」梯久美子(新潮社)2005年7月発行.244p.1500円
太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島の総指揮官・栗林忠道氏。彼の着任(昭和19年6月8日)から玉砕(昭和20年3月26日)までの9ヶ月間を、関係者へのインタビューや戦地からの手紙などをもとに追いながら、栗林忠道という人物像を浮き彫りにしていきます。
日本にとっては本土防衛の拠点、米軍にとっては日本本土空襲のための足がかりとなった硫黄島。戦力は圧倒的に米軍が勝り、最後には見捨てられることになるこの島で、懸命に戦った2万余の兵士たち。彼らのほとんどは、職業軍人ではなく、全国各地から召集された市井の人々。戦争も末期になり、若く壮健な兵士たちを集めることが難しく、妻子ある中年の兵士も多かったといいます。
水も食糧も不足する過酷な環境で、部下の兵士たちに凄惨な戦いを強いなければならなかった栗林氏は、硫黄島での日々をつねに兵士たちとともにあろうとします。毎日歩いて陣地を見回り、率先して節水に努め、食事も兵士と同じもの食べたといいます。
そしてなんとしても日本の国土である硫黄島を守り抜き、内地の人間が空襲を受けないように自分たちはここで戦っている。自分たちが敵の攻撃に耐えているうちは、父母も妻子も無事なのだという思いだけを心の支えにしていたのではないかと、著者は推測しています。
合理主義だった栗林氏は、正確に戦局を読み、これまでの陸軍の伝統に反する戦法を決断。兵士たちには温情あふるる指揮官であったといいます。家族に対しては、出征前に修繕することができなかった自宅のお勝手の隙間風を気にかけ、妻や当時9歳だった次女のたか子さん宛には細やかな気遣いをみせる手紙を数多く書き送っています。
タイトルになっている「散るぞ悲しき」は、玉砕を目の前にした昭和20年3月16日、大本営宛に発せられた訣別電報に添えられた栗林の辞世の歌に使われていたものでしたが、大本営が新聞発表したものは「散るぞ口惜し」に改変されていたというもの。その時代、死んでいく兵士たちを「悲しき」とうたうことが、指揮官にとって大きなタブーであったことをわかっていながら、あえてしたためた気持ちはいかばかりだったかと思います。
著者の梯久美子さんは、1961年生まれのフリーライター。この作品で第37回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
硫黄島の戦いを日本側から描いたもの。
冒頭、上空から硫黄島全体が見られる映像があるのですが、あまりにも小さく、何もない島だということに驚きました。
兵士以外誰もいない、逃げ場のない孤島での激しい戦い…。淡々と静かに描かれているのに、最後まで引き込まれて見ました。今の私たちの暮らしは、こういう歴史の上にあるんだ…とあらためて感じました。
届かなかった手紙が大量に見つかる場面がありますが、家族からの手紙がどんなに心を慰め、過酷な戦地での暮らしを支えたことか…。上記の「散るぞ悲しき」によると、戦地と家族を結ぶ郵便が止められたのは、米軍上陸近しと思われた2月11日だったといいます。郵便止めになった時、兵士たちはどんな思いだったのでしょう、そして戦地に送っても届かずに戻ってきてしまった手紙に家族はどんなに心配されたことでしょう…。
伊原剛志さんが演じたバロン西(昭和7年のロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルを獲得。硫黄島で戦死)が好きでした。